2019年7月04日
水曜日
あめ くもり
「brackets」というソフトを入れた。
パソコンのモニターにスイッチが入り、旧に復した。祝着。
午後3時すぎ、VERを連れて千秋公園。
今年初のシオカラトンボ。
胡月池の大賀ハスもつぼみをつけていた。薄紅色を覗かせているところはそこはかとなく期待感を持たせる。
ちょっと分からない花。何の花だろう。
2019年7月3日
火曜日
はれ
久しぶりに晴れたのでVERを連れてドライブ。午前10時、井川町の「日本国花苑」を目指す。この時点ではまだバラは咲いている、と思っていた。
ところがバラ園は花のかけらもなし。自分の迂闊さに気が付く。しかたなく草っ原を歩いたが、ここで家人がネジバナを見つけた。馬鹿の一つ覚えのように三角沼へ行ってもネジバナ、ネジバナと言っていたので一人で大興奮。
国花苑から五城目の道の駅へ。ここでソフトクリームを食い、帰宅。道の駅の裏側の小さな池にはメダカだろう、かなりの数が泳いでいた。売店の中を覗いてみたかったが、VERのお守りであきらめた。一昨年か、ポーポーなる果物を探しにきたことがあったことを思い出したからである。
あきた歳時記には秋の季語として
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ポーポー パポー山本郡峰浜村強坂の仲峰山長泉寺境内で見なれない木に出会った。副住職の若い俳人に聞くとポーポーだという。
ポーポーなら果物屋の店頭で見かけるし、二度ほど食ったことがある。ねっとりとした甘さで、豆粒のような種が多く、てっきり熱帯のものだろうと思い込んでいたところを、北緯四十度十五分程の地で見たので、驚いて調べてみたらアメリカ原産のものとわかった。
郁子(むべ)に似た青い果実だが、一つ一つ離ればなれに生っている。十月は熟期だが、その少し前から未熟状態の落果が始まるので、最初の落果を見たら熟度の高い方から摘果し、室内で追熟させて生食するものだという。
いろいろわかってみると、ポーポーは甘いバターのような味の果物で、それが日本の禅寺の境内でたくさんの実を着けている。不思議なような、楽しいような取り合わせであるという気がしてくる。
繋がってくる住職とパポーの実 荻原都美子
ポーポーの未熟な落果地を穢す 荻原映雱
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が載っている。
一般的には『ポポー』らしい。
2019年7月2日
火曜日
くもり あめ
午前中、自室でCDを聴く。クリフォード・ブラウンとサラ・ヴォーンの掛け合い。
午後、老生の食料を買いにVERをつれ川口の「ツルハ」へ。その後、三角沼までいくが、小雨が降ってきたので切り上げて帰宅。
2019年7月1日
月曜日
くもり
朝起きてVERの散歩のお見送りをしたとき、大町5丁目の≪ノウゼンカズラ≫が咲き出しているのに気が付いた。昨日まで気が付かなかったので、まさに突然開花したという感じ。
午前中、御所野のイオンモール。一つ森公園を経由したが、途中、アザミの花が咲いていた。
農協の売店「いぶきの里」に寄る。
駐車場で生まれたばかりのアオガエルを見つけた。アスファルトの上を懸命に逃げていくのだが、その歩みでは緑地帯にたどり着くまで車に轢き殺されそうだった。つい手の平に載せて田んぼの畦まで運んだ。余計なことだったか。
午後は昼寝。
久しぶりにシベリュウスを聴く。
ポータブルCDの音飛びに悩まされる。こんなに音飛びするのでは使い物にならない。
「安物買いの銭失い」と後悔する。
2019年6月27日
木曜日
くもり あめ
昨夜、家人がゴキブリを見た、という。アースレッドとかいう燻蒸剤を使うことにする。
午前9時、ドン・キホーテまでそれを買いに行き、同10時にそれを『発煙』させ家を出る。
小泉潟公園を目的地とし、最近開通した草生津川沿いの道を走ってみる。
「菖蒲園は6月中旬にいっせいに花を咲かせます。20種類の花菖蒲をご覧いただけるように、園路や木橋なども整備しています。」
菖蒲園は咲いているものは咲いていたが、7割がたは畝だけという状態。前に見た一面の花が妍を競うという状態ではなかった。中で作業している人に家人が聞いてみたところ、「株分けの失敗ですな」とのこと。「素人がやったみたい」とのたまわっていた。
しかし、水路(水は汚く油が浮いていたが)に咲いていたヒツジグサは実に可憐。
新聞社でも昔は睡蓮と蓮をよく間違えたものだ。
そこで安藤五百枝という人を思い出した。安藤和風の息子であるが、睡蓮と蓮を間違うとまさに切歯扼腕していた姿が思い出される。
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スイレン属(スイレンぞく、睡蓮属、学名: Nymphaea, 英名: water lily)は、スイレン科の属の一つ。水生多年草。
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帰りは男潟のサギを見て帰宅。かなり疲れる。
2019年6月26日
水曜日
はれ
夕方、パソコンにスイッチを入れるとモニターの電源が入らない。あれこれやってみたがウンともスンともいわない。しかたなくサーバーに取り付けていたモニターをはずして取りつける。むかしのモニターだけあって色合いが微妙に変である。
これだけの(単にモニターを付け替えただけ)作業で大いに疲れる。
《洋画専門館「秋田ピカデリー劇場」》で調べついでに『銀映座』というのもあったな、と思い検索。
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十人衆町の旭館は戦後、「銀映座」「第二東映」「銀映劇場」と名を改め、昭和四十年頃に閉館。
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小学生時代、『映画教室』というのがあって十人衆町というところまで歩いて行った記憶がある。何の映画だったのか?
この映画館を経営したのが村山多七郎。民謡関係で亡くなる前に2.3度楽屋で見かけたことがある。彼の略歴をみると知らなかったことがいっぱい。
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▼村山多七郎氏略歴明治44年横手市生まれ。京都大学経済学部を滝川事件のストライキに連座して中退・帰郷。映画館経営のかたわら秋田市議会議員に20代で初当選。その後、秋田市役所で経済課長を務め、市の経済行政の処理にあたる。
昭和22年(1947)「秋田中央印刷」設立。
昭和34年(1959)「有楽会館」設立。経営した主な映画館
土崎映画劇場、阿櫻館(横手)、秋田東宝、国際劇場、セントラル劇場、ムービーセンター、秋田中央劇場、秋田名画座、秋田大映、麻布映画劇場・麻布中央劇場(東京麻布十番)。下記ウェブサイトに両映画館の写真あり
麻布十番・アルバム-2銀行・国鉄・郵便局など、会社・職場単位の映画鑑賞サークルを組織、女性向け映画を特集した「女性週刊」を実施、映画評論家を呼んで解説させたりと、次々に斬新な企画を打ち出し秋田の興行界に新風を吹き込む。
昭和52年(1977)有楽町の「秋田東宝」跡地に映画館五館と飲食店が入居する秋田初の複合映画館「有楽町プレイタウンビル」設立。
昭和64年(1989) 秋田市文化団体連盟章
平成7年(1995) 秋田県文化功労章平成11年(1999)逝去。享年88歳。
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2019年6月25日
火曜日
はれ
朝、テレビを観ていたら『注視して見て行きたい』(テレビのコメンテーター)だと。
また、美空ひばりの映画『東京キッド』での職業は何であったか、というようなクイズをやっていた。東京キッドの説明に《1950年7月20日に発売された美空ひばりのシングルおよび、同年9月9日に公開された斎藤寅次郎監督による映画》とあった。
監督・寅次郎について「秋田の人だよなあ」ということでちょっと確認した。
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1905年(明治38年)1月30日、秋田県由利郡矢島町(現在の由利本荘市矢島町)舘町で役場収入役の父・孝一郎の子として生まれる
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1923年(大正12年)、親戚で美術家の斎藤佳三(上野美術学校の講師で、松竹蒲田撮影所の美術部長でもあった)の紹介で、松竹蒲田撮影所に監督志望で入社。大久保忠素監督のもとで助監督を務めた。
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そう、斎藤佳三なんですよ。もっと県民に知ってもらいたいよね。秋田高の同窓会HP(http://akitahs-doso.jp/libra/37)に載っている。
というようなことで午前中を過ごす。
午前11時、ジャガイモを買いに茨島のマックスバリュ。帰りに「パソコンの館」に寄り、スタイラスペンを買う。千円で50円のおつりがきた。
午後3時すぎ、雄物川の河口の「水辺の公園」までVERの散歩に行く。
帰りに割山に寄る。
長らく思い出せなかったスズラン通りの先にあった映画館(桑原洋服店の横にあった)の名前が思い出せないでいたが「二十世紀ひみつ基地」を観ていて分かった。その名は《洋画専門館「秋田ピカデリー劇場」》。