2020年12月27日
日曜日
くもり
終日在宅。
何かの拍子に変な言葉を思い出し、それが気になってならないということはままあること。
『かもかも』というのもその一つ。
秋田弁では男性性器を「がも」というが、『かもかも』はそれを想起させるオトでもある。
さらに田辺聖子の「カモカのおっちゃん」。
最初に感じたのはなんかスケベな雰囲気であった。と、同時に歯磨き粉の「スモカ」を思い起こしたことであった。
「カモカ」とは、関西の言葉で、「化け物や怖いもの」を指すという。
「カモカのおっちゃん」とは田辺聖子がいうのは旦那のこと。
てなことから万葉集の『かもかも』。
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かも‐かも
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[副]「かもかくも」に同じ。「雄鹿(をしか)跡(ふ)み起こしうかねらひ―すらく君故にこそ」〈万・一五七六〉
かも‐かも
goo[副]「かもかくも」に同じ。
「雄鹿 (をしか) 跡 (ふ) み起こしうかねらひ―すらく君故にこそ」〈万・一五七六〉
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ネットから適宜勉強させてもらうと以下の通り。
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万葉集 現代語訳 巻六雑歌965・966・967・968冬十二月に、大宰帥大伴旅人卿が都に上ったときに、乙女が作った歌二首
965 凡(おお)ならばかもかもせむを恐(かしこ)みと振りたき袖を忍びてあるかも
※「凡」普通。
※「かもかも」ああでもこうでも。〈かもかくも〉と同じ。普通の方との別れなら
あれやこれやとしようけど
高貴でおそれ多いから
振りたい袖を耐えている966 大和道(やまとじ)は雲隠(くもがく)りたり然(しか)れども我(わ)が振る袖をなめしと思(も)ふな
※「なめし」無礼だ。大和へ向かう街道は
雲に隠れているけれど
袖振る私を無礼だと
思わないで下さいね※この訳では意味がわからないだろう。『新日本古典文学大系』脚注に〈第三句「然れども」は、何
を受け、何処へ続くのか、判然としない〉とある。『日本古典文学全集』の頭注にも〈然れどもー
接続詞で、下の振ルに続くのであろうが、上下の結びつきが明らかでない〉とある。これで諦めた
のではおもしろくない。もう一度訳してみよう。雲に隠れた天上の
ような高貴なところへと
帰って行かれる方なのに
名残惜しんで親しげに
袖振る私を無礼だと
思わないで下さいね※〈大和道は雲隠りたり〉を暗喩と知ればあら不思議、965の歌の変奏曲へと早変わり。次の〈原
注〉にもあるように、大伴旅人は大納言となって政権の中枢へと帰って行く。それを踏まえた暗喩
である。原注
大宰帥大伴旅人卿が大納言を兼任することになって都へ向かう道についた。その日、馬を水城(みずき)にとめて大宰府の館を振り返って眺めた。そのとき卿を見送る役人たちの中に遊行女婦がいた。名を児島という。そこでその乙女が、別れのはかなさを悲しみ逢うことの難しさを嘆いて、涙を拭いて口ずさんだのが、袖を振った歌である。
※「水城」福岡県太宰府市水城の地に築かれた大宰府防衛のための堤防。大納言大伴卿が答えた歌二首
967 大和道(やまとじ)の吉備(きび)の児島(こしま)を過ぎて行(い)かば筑紫(つくし)の児島(こしま)思ほえむかも
※「吉備の児島」〈吉備〉岡山県南部と広島県東部の総称。〈児島〉現在、岡山市南方の児島半島と
なっているが、当時は島だった。大和へ帰るとき吉備の
児島を通り過ぎたなら
筑紫に児島のいたことが
思い出されるだろうなあ968 ますらをと思へる我(われ)や水茎(みずくき)の水城(みずき)の上に涙(なみだ)拭(のご)はむ
※枕詞:水茎の強い男と自負しては
いるがそれでもわたくしは
水城の上に立ち尽くし
涙を拭くのであろうかな
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