『猿』『時雨』『捨て子』

2017年11月18日 土曜日 くもり

寒い。 終日在宅。

この季節になると『猿』『時雨』『捨て子』と三つの《題》が浮かんでくる。 芭蕉の思いはどこにあったのか。

// 野ざらし紀行  富士川のほとりを行に、三つ 計なる捨子の、哀氣に泣有。この川の早瀬にかけてうき世の波をしのぐにたえず。露計の命待まと、捨置けむ、小萩がもとの秋の風、 こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、       猿を聞人捨子に秋の風いかに  いかにぞや、汝ちゝに悪まれたる歟、母にうとまれたるか。 ちゝは汝を悪にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝が性のつたなき(を)なけ。 //

フィクションとみる向きもあるが、芭蕉の時代、捨て子にはやはり「唯これ天にして」というしかなかったろう。高校時代の国語の教師は「やっぱり村役人とか庄屋とか、そういう人たちがなんとかしたろうな」と言っていたことが思い出される。

この歳になって「唯これ天にして…」がようやく理解できるようになったか。

もう一つ、忘れられない句がある。

初時雨猿も小蓑を欲しげなり

志を得ることができなかった昔、一人で呟かざるを得なかった。 その子猿も今では老猿、唯これ天にして、己が性のつたなきを嘆くのみ。