穂積生萩と折口信夫の話

2016年10月26日
土曜日
くもり はれ

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 穏やかな天気。
 千葉で大雨の被害。
 安孫子の妹にメール。
 返しに《昨日は、こちらも暴風雨でした。買い物にちょいと出かけたら傘をさしてもびしょびしょになりました。天候が異常ですよね。秋田も秋が深まり、どんどん寒くなりますね。》

 午前中、『北村薫のうた合わせ百人一首』。
 男鹿出身の穂積生萩の歌が出てきた。

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かげろうは折口信夫 うす翅を わが二の腕にふせて 雨聴く 穂積生萩

 ここに、別な女人の歌が響いている―と思うのは無理だろうか。穂積生萩は『私の折口信夫』(講談社)で、女性を嫌悪した筈の折口に、近づくことがあったと語る。その結び近く、穂積は能登に行く。《羽咋の宿を出て、夕暮れ近い海を見ながら、私は恋人に会いに行くように、少し緊張し涙ぐんだりしながら、お墓を探し歩いた》。
そして、墓の側の石を持ち帰る。「あとがき」では、自分の歌集『貧しい町』(白玉書房)に《折口信夫の骨を食べた歌がのっていた》と書く。これは世を驚かせた。
 山折哲雄は、死者への思いをこめての《「骨かみ」慣習》に関心を持っており、そこから『執深くあれ』(山折哲雄穂積生萩 小学館)が生まれた。穂積はその中で、『貧しい町』にある、秋田県男鹿での《父の骨食べて ようやく心足る。我れの父なり 我れの父なり》は事実だったーと語る。遠い昔にはあった、切実な習わしなのだ。
 ただ、折口に関する《こりこりと乾きし音や 昧もなき師のおん骨を食べたてまつる》の方は、差し障りがあるので、《あれはフィクションです、といっておきましょうか》とぼかす。
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  昔の話。記憶のどこかに残っていた。こういう出会いがあるというのはうれしい。

 午後、割山へ行ったが不在。
 その足で三角沼。久しぶりなり。一周して疲れる。