ショスタコービッチと親鸞

2019年11月2日
月曜日
くもり

 午前中、自室でウトウトしているところを家人に起こされる。「髪が伸びてきたから床屋へいけ」とのこと。サティの千円床屋(値上げして現在は1200円となった)へ行く。
 痰取りがゾンザイだったせいか歩くのが苦しかった。

 昼食後、昼寝。

 ふとジャン・コクトーの「耳」を思い出した。

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Mon oreille est un coquillage
Qui aime le bruit de la mer
( Jean Cocteau, Cannes V )

私の耳は 貝の殻
海の響を懐かしむ
( 堀口大學 訳 )
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 「三半規管」が巻貝に似ているとすみれ子さんの父上・堀口大学は「母の声」という詩に書いている。耳というのは何か甘美な思いを抱かせる。それがこの詩の妙にセクシーなところ。オレーユとコキャージュ。

 夜、自室でショスターコービッチの『交響曲5番』を聴きながら思うところあり。

『いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり』と親鸞も言っている。

 そしてですな、
『久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだうまれざる安養の浄土はこいしからずそうろうこと、まことに、よくよく煩悩の興盛にそうろうにこそ。
なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、ちからなくしておわるときに、かの土へはまいるべきなり』

『いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまうなり』
と慰めてくれる。

 ショスタコービッチ親鸞、変な取り合わせだね。