家人、精米にいく

2018年2月23日 金曜日 はれ

終日在宅。 午前中、家人、精米にいく。 ネットでハイレゾとCDの関係を調べるが、結局、よく分からない。

寝ながら思い出せぬ言葉がある。なんとも歯がゆい。 そうなんだ、中国の故事で天が落ちてこぬかと心配したという《あれ》だよ。 え~い、まだるっこしいなあ。 寒い中、起きだして調べるのも面倒くさいし。と思いつつ夢の中へ。 朝、調べました。「杞憂」でした! これもボケてきたせいか。

昨日か一昨日か、テレビで「剣客商売」を観た。その中で小兵衛の若い妻の手習いシーンがあった。妻の紙に書いた「にわとり」の文字。これは江戸時代の話だから当然、旧仮名遣いのはず。さすれば「にはとり」と書かなければおかしい。それとも、手習いだから当時の発音通りに書いたのだろうか。 ところで

/* 「庭には二羽鶏がゐる」。これを正仮名で書くと、「にはにはにはにはとりがゐる」。「庭」は正仮名では「には」。「鶏」は「庭鳥」に因むため「にはとり」。「二羽」は「十羽(ジッ“パ”)」からわかるやうに正仮名では「には」。これを楽しく覚えれば、一気に三つのことを覚えられますよ。 */

というのも「ためになる」話だねえ。

越し方は一夜ばかりの心地して八十路あまりの夢をみしかな」 とは貝原益軒の辞世の歌。これもテレビで得た知識。益軒といえば「接してもらさず」しか知らなかったもんな。しかしこの歌、「ほんとにそうだなあ」と思う。

ついでにこれもテレビでの水戸の黄門さんの話(「恋しい人は凶状持ち -駿府-」(1995年))。大学の同級生・津村が悪代官役で出ていた。駿府代官という役職。そんな役職があったのか、調べたらやっぱりあった。

/*  駿府代官所は江戸時代、天領(幕府直轄地)の地方(農村)の支配を行っていた。江戸中期には5万9101石であったが、後期になると駿河遠江信濃にまで広がり、8万石余りにまでなったという。  下って明治二年(1869)には謹慎をとかれた徳川慶喜が宝台院よりこの代官屋敷に移り住み、多彩な趣味に時を過ごした。屋敷南側に残る回遊式の池は、慶喜が作庭師小川治兵衛に命じて改修させたものである。(『静岡県の歴史散歩』山川出版社刊参照) */