VER、朝の散歩お休み

2019年12月8日
日曜日
ゆき くもり

 VER、朝の散歩お休み。昨日もサボった。寒さが身に沁むのか。

 午前中、自室であれこれ。
 午後、NHK囲碁

 昼寝。

 最近、痰が粘っこくなってきているようだ。霧掛け20分だが、きれいに全てが取れるわけではない。そこで追加吸引をやるのだが、なかなかこれが辛い。

 ところで、放送局は忘れたが、アナウンサーが「振り返られる」と言っていたが何か違和感を感じた。「振り返れる」でいいのではないかと思ったが自信はない。

 『死語読本』塩田丸男(文春文庫)で「振り返れる」は、「ら抜きことば」と言っているが、そうではないと反論しているのを見つけた。

 

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昔から認められた語形だ。諸井薫氏も、「諸君」も、塩田丸男氏も、うっかりしていたらしい。
 「振り返らない」「変わらない」「太らない」のように、「ない」をつけたときに直前が「ら」(ア段音)になる動詞は、江戸時代から「振り返れる」「変われる」「太れる」のように言うことができた。これは今いわれる「ら抜きことば」とは違うものだ。
 もちろん一方で「振り返られる」「変わられる」「太られる」と、「ら」を抜かさない言い方もあった。どっちでも可能を表せるが、むしろ今では前者のほうが優勢。
 これに対し、「見ない」「食べない」「来ない」のように、「ない」を付けたときに直前が「ら」にならない動詞は、伝統的には「見られる」「食べられる」「来られる」と言ったのだが、共通語でこれらの「ら」が落ちる傾向が大正・昭和あたりから目立って来だした。これが「ら抜きことば」。
 対比的にいえば、「(過去を)振り返れる」は「ら抜きことば」ではないが、「(郵便で)振り替えれる」は「ら抜きことば」だ、と説明することもできます。
 ことばについての著書をものするならば、こういう基本的なことは押さえておいてほしいところ。ほかにも「昔の女房詞で腹のすいたことを「ひだるい」と言った」(p.211)のような誤解もある。そうじゃない、「ひだるい」(空腹だ)を「ひもじい」と言ったのが女房詞なのだ。
http://www.asahi-net.or.jp/~qm4h-iim/k980902.htm
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